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臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。現在、墓は松蔭寺にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されている。

白隠 達磨

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白隠慧鶴の略歴 (Hakuin ekaku)

1686年駿河の原宿で生まれる。
1700年地元の松蔭寺で出家し、沼津の大聖寺で息道に師事。
1703年清水の禅叢寺に入るが、後に禅を捨て詩文に没頭。雲棲祩宏の『禅関策進』に触れ修行を再開、諸国を巡る。
1708年越後の英巌寺で「趙州無字」の公案により開悟。その後、信州の飯山で大悟、嗣法となる。
1710年京都の北白川で白幽子から「軟酥の法」を学び、禅病が完治。
1716年遊歴の後、松蔭寺に帰郷。
1763年三島の龍澤寺を開山。
1769年松蔭寺で没。

白隠慧鶴の禅画と墨蹟

白隠は広く民衆に禅の教えを伝えるために努め、多くの絵を描きました。その数は1万点以上とも言われています。最も早い作品は享保4年(1719年)の「達磨図」であり、大作の「達磨図」は寛延4年(1751年)に制作されました。代表作の一つである「大燈国師像」には、下書きや描き直しの跡が残っており、その拙い技法が後の曾我蕭白などに影響を与えたと考えられています。石川九楊は、白隠の墨蹟について「書法の失調」を捉え、「書でなくなることによって書である」と評しています。細川護立と山本発次郎は、白隠の書画の代表的なコレクターであり、それぞれのコレクションは永青文庫と大阪中之島美術館に収められています。

白隠の弟子たち

葦津慧隆円桂祖純快嚴智徹峨山慈棹
央龍伊松格宗浄超環渓祖底貫宗会通
関捩慈訓寬瑞祖精玄室宗実悟庵襌聡
劫運祖永江西慧顒業海宗牧指津宗琅
斯経慧梁鐘山霊祐神州義敦遂翁元廬
石鼎道剛禅圭周因滄海宜運太庾放石
曹渓智脫草山祖芳層嶺方邃太霊紹鑑
大休慧昉大舟楚欣大虫慧岑大同曇慧
長沙恵法鳥道慧忠提州禅恕天崖玄魯
天猊慧謙東嶺円慈独天默笑月丘無隠
弁的首座澧川道温牧翁惠水雄山慧牧
良哉元明霊源慧桃楞山慧脫

白隠の出生から雲水としての修行時代

貞享二年(1685年) 東海道十三番目の原宿の地に生まれた白隠(幼名岩次郎) は、元禄十二年(1699年) 十五歳の時に得度して、慧鶴(えかく)と名付けられ る。松蔭寺の見習い僧から修行をはじめ、元禄十六年、十九歳になった慧鶴は廻国行脚へと旅立った。雲水として十四年の歳月を修行に費やすことになるが、各地を遍歴することで、多くの貧しい人々の暮らしの現状を目の当りにした経験は、後年の救済運動に繋がっていった。

故郷原宿にもどり、荒廃していた松蔭寺を復興する

享保二年(1717年)三十三歳で松蔭寺に入寺した慧鶴は、「白隠」という道号を名乗り、松蔭寺の住職に就任する。白隠は、禅の学究に勤しむかたわら、在家支援者の理解と援助のもと、寺の借金を返済しつつ、松蔭寺の復興に精力的に取り組んでいく。その過程で、末寺としての悲哀と苦衷を身に沁みて経験したことは、本末制度に安住する宗門への厳しい批判へと繋がっていった。

社会全体の変革を唱えるようになった後半生への転換

元文二年(1737年)、白隠五十三歳の時に、松蔭寺の経営はようやく軌道にのる。すでにその学識におい名声を博していた白隠は、その年以降、招請に応じては全国各地に赴いて、提唱・講読をおこない、上は公家・大名から下は庶民まで分け隔てなく交流し、社会を深く洞察しては、鋭い疑問、批判を人びとに投げかけた。数万点ともいわれる白隠独得の禅画は、そうした交流のうちに描かれたものである。

宝暦・明和期の白隠

宝暦四年(1754年)、白隠七十歳の時に書かれた『辺鄙以知吾」は、その激烈な政治批判のために禁書となった。また明和年間に駿河小島藩で起こった惣百姓一揆に干与していた可能性もある。幕政・藩政への批判を展開したのは白隠一人ではない。 宝暦八年(1758年)には、京都で竹内式部をはじめとする尊皇論者が弾圧され、明和四年(1767年)には、倒幕思想の先駆けとなる放伐論を唱えた山県大弐が門人らと共に捕縛されるという時代であった。

白隠の門弟、支援者たち

原宿の松蔭寺に参集した門弟たちは、松蔭寺の山号「鵠林」から鵠林一門と呼ばれた。門弟たちの多くは、宗派の有力な寺院、名刹の住職に就任して、白隠の宗門改革を浸透させていった。彼らのほかにも、大名や公家、各地の豪商、豪農などが有力な在家居士となって、白隠の活動をひろく支えていた。鵠林一門に在家居士群を加えれば、まさに鵠林教団とも称すべき一大勢力であった。

白隠の晩年

優秀な数多くの門弟を育て上げ、宗門全体に影響を及ぼすほどにまで拡大した鵠林教団を率いる白隠の権勢は、いまや押しも押されもせぬものであった。そんな白隠が頭を悩ませたこと、それは自身の後継問題であった。五百年に一人と言われた名僧も、晩年はさまざまな俗事に悩まされることになった。後継問題を切り抜けた後、明和五年(1768年)、白隠は八十四歳でその生涯を閉じたのであった。

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【白隠慧鶴】掛け軸の買取実績