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砂澤ビッキの略歴 (Sunazawa bikky)

昭和6年3月6日(0歳)北海道旭川に生まれる。本名、恒雄
昭和28年(22歳)木彫を始める。鎌倉へ移住してモダンアート協会に所属
昭和30年(24歳)小説家・武田泰淳がビッキを主人公にして雑誌の連載を開始する
昭和33年(27歳)第8回モダンアート協会展へ出品、新人賞受賞
昭和34年(28歳)旭川へ戻り、多くの展覧会に出品
昭和42年(36歳)札幌へ移り、巧工務店に仕事場を持つ
昭和48年(42歳)アイヌ民族のシンボルマークをデザインしメーデーに参加。アイヌ民芸企業組合に参加し、デザイン・技術指導にあたる
昭和53年(47歳)中川郡音威子府村筬島へ移り、廃校となった小学校をアトリエとする
昭和58年(52歳)美術の教科書に載る。北海道生活文化・スポーツ海外交流事業の派遣員として、カナダへ渡る
昭和60年(54歳)空知郡上砂川町国民休養地にトーテムポール状の作品を設置
平成元年(57歳)死去

砂澤ビッキの作家人生

出自と若手時代

1931年3月6日、北海道旭川で砂澤ビッキは生まれます。彼は幼少期から「ビッキ」という愛称で親しまれていました。彼の両親はクリスチャンでありつつ、アイヌ文化の伝統を守る人々で、父は狩猟やマキリ作り、母は刺繍の達人でした。ビッキは、父や兄が作る彫刻を見ながら育ち、初めて狩猟や彫刻といった生活に触れました。

学校に入学後、ビッキは差別に直面しましたが、動物とのふれあいが彼の心に大きな影響を与え、後の彫刻作品に活かされました。17歳で北海道立農業講習所を卒業した後、父が開拓した土地で農業に従事し、絵画に情熱を注ぎました。

22歳で父が亡くなると、ビッキは農業を辞め、母が住む道東の阿寒湖畔に移住しました。そこで土産物店で木彫りを始め、彫刻家としての道を歩み始めました。彼の作品には、性愛的なテーマを超えた生命力が表現されており、人間性の解放を目指していました。23歳の時にオシップザッキンの展示を見て大きな影響を受け、本格的に彫刻家としての活動を開始しました。その後、東京での展示会に参加し、抽象的な彫刻作品で注目を集めました。

1958年には阿寒と鎌倉で季節ごとに生活し、独立して「ビッキの店」を運営しました。1959年には旭川に戻り、アイヌ民芸センターで木彫のデザインや制作の指導を行いました。

60~70年代

1960年、29歳のビッキは岡本太郎らと共に「第1回集団現代彫刻展」に参加しました。この展覧会では、読売アンデパンダン展の出品者である毛利武士郎や山口勝広、行動美術協会の彫刻家たちとともに、「モダン彫刻」を広く紹介することが目的でした。ビッキはこの展示で「動物 6 捕獲された動物」という作品を発表し、その独創的な形式で注目を集めました。この作品は地面に横たわる動物を描いているが、一部が硬直しているかのように見え、最後の抵抗を示しています。彼の作品はその材質を通じて直接的に観者の想像力に訴えるアプローチが特徴で、従来の抽象彫刻とは一線を画しています。

ビッキは自然素材の秘密に深い関心を持ち、それを彫刻によって生命を与え、自然を超越する作品を目指しました。33歳でモダンアート協会を退会し、「破壊行為実験」を開始し、新しいテーマ「TENTACLE」に取り組みました。このテーマは、触手や人間の手を含む、より根源的な部分を探求するものでした。

ビッキは東京での展示を続ける一方、地元北海道のアンデパンダン展にも積極的に参加しました。札幌へ移住後は地元の前衛作家たちと交流を深め、多様な活動を展開しました。アイヌ人権問題への取り組みも行いながら、彫刻としての表現を探求し続けました。また、「アーティストユニオン'76」での《TENTACLE》の発表では、人体の関節を模した球体や棒状のパーツを組み合わせる新たな技法を採用し、動きを表現する工芸作品としての可能性を追求しました。

晩年

1978年、47歳の時にビッキにとって大きな転機が訪れました。北海道の道北地方にある音威子府村の廃校となった筬島小学校をアトリエとして使う提案を受け、豊富な木材が利用できる環境に惹かれて移住しました。この移住は、都会の息苦しさから解放される新たな始まりを意味していました。ビッキの到来は村にとっても意義深い出来事で、彼は「現代美術といえば音威子府を外せない」と宣言し、「樹を語り作品展」を毎年開催することになりました。このイベントは地域振興にも寄与し、札幌の仲間たちも参加しました。

ビッキは地元のコミュニティ活動にも積極的に参加し、1980年には音威子府駅前に「オトイネップワー」という高さ15メートルのトーテムポール風の彫刻を建立しました。この彫刻には地元のシンボルが組み込まれ、建立式では地域全体の祭りとなり、大勢が参加しました。

しかし、ビッキが音威子府での生活を選んだ主な理由は、孤独を愛したからでした。静寂の中で自己反省が可能となり、創作に没頭する理想的な環境がここにありました。また、1980年には第二のアトリエが完成し、大型の作品制作が可能となりました。これらの作品の中には「神の舌」などの代表作が含まれています。

52歳の時、カナダのブリティッシュコロンビア州に派遣された経験は、彼にとって自己確認の機会となりました。先住民の自然観や彼の作品に対する公平な評価を経て、群れずに自立した生活が正しい道であるとの確信を深めました。その後の彼の作品はより活発でダイナミックになり、「風」シリーズなど新たな展開を迎えました。

砂澤ビッキの買取

三冬花では、砂澤ビッキの作品の買取を行っております。出張査定は愛知県(名古屋市)、岐阜県、三重県、滋賀県の地域は無料でお伺いします。ただし内容によってはお伺いできない場合がございます。

1953年、22歳で木彫りを始めたビッキは鎌倉に移住し、モダンアート協会に加入しました。彼は多くの展示会に作品を出展し、阿寒と鎌倉を主な制作拠点として活動していました。1959年には故郷の旭川市に戻り、北海道と東京を中心に展示活動を広げました。1978年には上川支庁北部の音威子府村筬島(おさしま)に転居し、廃校となった小学校をアトリエとして設定しました。彼はその後十数年間、精力的に木彫作品を制作し続け、北海道を中心に多くの屋外彫刻も手掛けました。ビッキは土産物の木彫から出発し、大胆かつ繊細、原始的でありながらもモダンな独自のスタイルを確立し、その作品は国際的にも高く評価されました。

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  • 作家作品の場合、その作家の特徴、個性が如実に表れているかどうかを判断します。
  • 細部を確認し、筆致、絵の具、紙質(絹布の質)等を見て、本物とどこが共通かを見ます。
  • 落款・印を確認し、本人の署名かどうか、また印は、本人が何歳頃に使用したものか(富岡鐵斎などは数十の印を使用した)を厳しく判別します。
  • 共箱がある場合は箱書を見ます。由緒ある作品なのか、また箱書の署名人の署名そのものも本物なのかどうかを判断します。
  • 明らかな贋物は、品位や風格、あるいは独特の大らかさに欠ける、などと簡単に判別のつく場合もありますが上記のようなポイントを押さえて真贋を判断します。これは掛け軸、陶磁器、刀剣、絵画等の鑑定にも共通する基本といってよいです。

※【箱書】陶磁器を収める箱の蓋や蓋裏に、極書(きわめがき)を署名・押印をしたもの。作家本人、または弟子などが記すことが多い。ただし偽物の箱書きもあり得るので注意が必要です。

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骨董品の鑑定にはどのような品物が含まれますか?

骨董品の鑑定には、古美術品、陶磁器、絵画、彫刻、古文書、古い家具、装飾品、古い金属製品など、多岐にわたる品物が含まれます。年代物の品物や、歴史的、芸術的価値があるとされるものが対象となります。

鑑定にはどれくらいの時間がかかりますか?

鑑定にかかる時間は、品物の種類や状態によって異なります。簡単な品物の査定であれば数秒でわかりますが、より詳細な鑑定が必要な品物の場合は数日から数週間かかることもあります。

鑑定結果に納得できない場合はどうすればいいですか?

鑑定結果に納得がいかない場合は、別の鑑定機関や鑑定士にセカンドオピニオンを求めることをお勧めします。複数の専門家の意見を聞くことで、より公正な評価を得られることがあります。

骨董品鑑定の結果はどれくらいの期間有効ですか?

骨董品の価値は市場の需要と供給によって変動するため、鑑定結果の有効期間は一概には言えません。一般的には、鑑定書は3~5年を目安に更新を検討することが推奨されますが、市場が大きく変動した場合や重要な新情報が出た場合は、それより早く更新が必要になることもあります。

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投稿者プロフィール

三冬花 谷崎未来
三冬花 谷崎未来
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