横山大観の生涯と芸術

横山大観の生涯と芸術
不逞なる大観
昭和三十三年、九十年にわたる壮大な生涯を終わった大観は、近代日本が生んだ一大人物であった。 明治、大正、昭和にわたる大いなる波瀾にみちた行路、その行路に幾度となくおこった苦難を激しい気魄と闘 志でのりこえた一生はまことに印象的である。この大観に匹敵する偉材を美術界に求めることは容易でないし、 他の分野に求めてもこれほどの人はなかなか見いだせないだろう。
しかし、このような大観は、ひとり突如として出現してきたのではなかった。その大観を呼びおこし、熱烈な 理想の火をともした先覚者がその前にあった。それはいうまでもなく、明治美術のロマン的リーダーといってよ い天心・岡倉覚三である。天心に対する大観の傾倒は、青年時代にはじまって終生変わることがなかった。いや 大観の生涯は、天心の理想の実現ひとすじに向けられたといえる。
「顧みますと、私は実に岡倉先生から厚い恩誼をうけています。私の今日あるのは、骨肉も遠く及ばないほどの 先生の真実の愛と、ご鞭撻とご庇護とがあったからです。先生は、どういうものか早くから、このいたらぬ私に対して、過分のご期待を寄せて下さいました。いつも横山、横山と、私ばかりを呼んで下さいました。このあり がたい先生のご期待にそむくまいと、私はただわき目もふらず、一筋に芸術への精進をつづけて来ました。今日、 私がこのはかりしれない先生のご恩誼にお報いすることのできるものといえば、それはこの芸術への精進という 一事以外には何ものもありません。先生は年若くして亡くなられたと申しますものの(天心は大正二年、五十二 歳で没)、先生のご精神はいささかもほろびず、今なお生きていられます。 先生はいつもいつも私を見守っていてそくそく下さいます」 この謙虚な言葉は、八十を過ぎた晩年の老大観が段々と衷心から語ったものである。大観はよく美術界の風雲 児といわれ、英雄児とみなされ、また覇気の人、あるいは反骨の人といわれた。さらに一方では、わがままで子 どもっぽいだだっ子であると評された。しかし、そのどのいい方も大観の本質をつくには不足である。というの は、そのどれでもあったろうが、結局のところはそのどれでもなく、ひっきょう無窮を追うロマン的壮士だった からである。大観は不逞なるものだという見解をなす人がある。この説のほうが、はるかに大観の本質にふれる ものであろう。
おいたち
大観は、明治元年九月十八日、水戸藩の士族酒井捨彦の長男として生まれた。明治十四年には湯島小学校を卒 業、ついで東京府立中学校(今日の日比谷高校の前身)にすすみ、十八年に同校を卒業した。中学を出た大観は、明治二十年父の友人今泉雄作のすすめもあって、官立東京美術学校に入学する決心をした のである。こうして、いよいよ画家大観のスタートが切られたわけである。
東京美術学校では、絵画科に属し、主として橋本雅邦の指導を受けた。同校では国宝級の古美術にもふれ、伝 統研究にも新しい角度をもつと同時に、洋画の動きにもすこしずつ刺激をうけてきた大観は、これまでの美術界 にみられぬ新しい歩みを踏みだしてきたことはきわめて自然である。
大観の卒業は、明治二十六年七月であったが、その在学中の作である〈猿廻し〉や、卒業制作の〈村童観猿翁> などを見れば、若き大観の懸命な勉強ぶりがわかるだろう。さすがに雅邦の指導下にあったものとして、狩野風 のつよい描線があちこちにきらめいているが、といって、作調には大和絵風な古画研究のあとがみえるし、さら には近世風俗画風の扱いをみせたところもある。その上に、地面の描き方や遠景のこなし方には、当時の洋画系 の表現に示唆された点がみられ、それ以前の日本画とはよほどちがった自然主美的な感じの空間がつくられている。
古画模写時代
美術学校を出た大観は、帝室博物館の美術部長を兼ねていた天心の発案で、美術学校卒業生中の秀才をあつめ て、館費で古美術の模本をつくる計画がたてられ、大観は、下村観山や菱田春草らとともに、その主力として参 加することになった。しかも、同じ明治二十八年京都の市立美術工芸学校に今泉雄作が校長としてゆくことにな り、大観も教諭となって京都に移住し、学校を半ばにして京都付近の古名品の模写をする機会にめぐまれた。豪 放な半面、細心周密な、鋭敏でこまかい神経をもっている大観が、この時期にたくさんの良い模写をのこしてい ることは遺品によって明らかだろう。そのおもだったものをあげても、天寿国曼荼羅〈吉祥天像〉〈阿弥陀如来 像〉あたりの仏画から、絵師草紙〉〈稚子草紙〉などの絵巻物、さらに大徳寺の〈観音、猿猴、白鶴図〉や雪舟 の〈四季山水図〉など、その仕事は量質ともにきわだったものであり、ここから会得したものが後の画業にどれ ほど役立ったかは、はかりしれない。
この京都時代は約一年で終わり、その間に大観と号し、竹内栖鳳という俊才と知りあい、さらに大原女との結 婚話などという愉快なエピソードまでのこして、大観はとつぜん東京に引きあげることになった。こうして明治 二十九年五月、大観は東京美術学校助教授となり、同じく卒業生の西郷孤月、菱田春草、在野の新人では、日本 青年絵画協会の主力であった寺崎広業、小堀鞆音、山田敬中らといっしょに、はじめて上野に勤務することにな った。
その年の秋には、天心がこれら学校派の新鋭画家たちを主体とする日本絵画協会をつくり、その第一回展をひ らくことになるが、この日本絵画協会主催の共進会が明治日本画壇の先頭にあって、洋画界における白馬会とと もに、しだいに新風を巻きおこす母胎となったことは周知のところだろう。
朦朧体の新風
日本絵画協会の共進会は、明治二十九年の秋を第一回として、以後春秋の二回、定期的につづけられ、ことに 三十一年秋からは、新しく創立された日本美術院との連合展の形ではなやかに催された。
これら出品作品のなかで識者をおどろかせたのが〈無我〉である。平安朝の風俗をした童子をただひとり、柳 の芽ぶく春の水辺に立たせただけの構図であるが、
古画研究から来た落ちついた彩調、のびのいい巧みな描線で、 禅的な悟境にも通う無心の世界を描出している。多少の古風がただよってはいるが、一気にこのむつかしい題材 にいどんだ大観の画才は尋常でないことがわかる。

このような精神的境地をねらって直感的に迫っていく大観の行き方は、日本美術院創立第一回に出した屈原> このような精神的境地をねらって直截的に迫っていく大観 において異常な成功をおさめた。気力と熱の人、志に感ずる水戸人大観は、なにかの大事件にぶつかると、爆発
策謀によって学校長を追われ、雅邦はじめ、大観、 的な力を発揮する。日本美術院の創立は、恩師天心が反対派の 観山、春草ら多数の一族がそれに殉じて辞職を決行した一大騒動のあとに行なわれたものであり、必死背水の陣 であっただけに、大観の闘志はなみならぬものであったろう。志をいれられず、濡言にあって職をやめ、ついに 油羅の水に身を投げた中国の志士、屈原の悲壮なすがたは、そのまま当時の天心の心情に通じている。いま見て も悲愁の気あふれるすさまじいばかりの画面は、一代の力作といってよく、当時これが、高山構牛、坪内逍遙、 島村抱月らの文人によって大いに論ぜられ、歴史画論のきっかけをなしたことは有名な事実である。
これと同じとき発表された〈四季の雨〉は、四季それぞれの雨の景趣を描いて、詩情ゆたかな大観の一側面を みせている。すでに刷毛による朦朧とした描法が出ているが、一方にはまだ在来の線描ものこされている。とく に秋・冬の景の一部には、雅邦風の名ごりがめだつ。しかし画感には、すでに狩野派をはなれ、雅邦をこえ、洋
とも親和しあう清新なものがあることは争えない。新体でありながら画面がうわつかず、落ちついた情趣を示 していることは、古画の素養がものをいったものであろう。 <屈原〉〈四季の雨〉あたりに出はじめた線描のほかに刷毛を多用する手法が、夏日四題>あたりからいっそう 徹底され、菜の花〉などでは、ほとんど線のない、いわゆる朦朧とした色彩画にはいっていく。主として大観と 春草による新手法が、当時、朦朧体あるいは標 継体として非難をうけた問題の画風であった。この朦朧体の呼び 名は、やがては院の日本画の代名詞にまでなり、院攻撃のきめ手となって、その衰亡をはやめた原因となるもの である。
ひょうびょう
この朦朧派という嘲笑語は、当時のジャーナリストが新聞紙上で作った言葉であるが、筆の線がなく、色彩が ぼうっとして、つかみどころがないところから、またヌエ的絵画ともいわれた。
文展における活躍
明治四十年に開設された文部省美術展覧会は、明治美術界の成果を総合するものであり、美術振興のきっかけ をなす盛んな行事でもあった。天心、大観、観山、三人を審査委員として送りだした五浦の日本美術院は、この 好機を待望していたであろう。
「第一回から大正二年の第七回展まで意欲作を出品し続けた大観は、朦朧体の新風をしだいに独自のものに消化 して、大観式ともいえるスタイルに純化していったが、流燈ンになると、色彩は新しく美しいハーモニーをかなで、画情ロマン的に統一され、優婉な世界をなしている。
この絵はかつてのインド旅行のときの取材で、作者の多感な情操が気持ちよくあふれでたものである。明治四 十三年には、大観は広業及び山岡米華と中国に遊んだが、帰国後の作品が<楚水の巻〉である。大観水墨画のは じめであり、得意の図巻形式のはじめでもあり、この着想はしだいに発展して、のちの大観様式の重要な要素と
なる。
〈流燈〉の色彩美、楚水の巻〉の水墨情趣と一回ごとに新生面をみせる大観は、次回の〈山路〉では、また意表 をつく表現に画壇を驚かせた。晩秋の色づいた山路を馬子が家路に急ぐところ、夕風にかわいた木々の葉がさや さやと鳴り、その間に馬子唄も聞こえてくれば、急坂を降りる蹄の音もひびいてくる感じである。大和絵風の彩 調を洋画のタッチを思わせる手法で大胆に生かし、当時の美術界に大きな刺激をあたえた。
こうした新機軸が、油ののりきった大観によって続々と提出されていく。〈瀟湘八景〉もその優なるもので、古 来いく度も描かれた題材が、みごとに清新な感覚でよみがえってきた。八点とも、どれをとってもいかにも大観 らしい機鋒するどい構図であり、大ぶりで快的な組み立てのうちに、さわやかな韻致をつたえる。
この〈瀟湘八景〉は大観の名声をさらに高くしたが、当時の大観は生涯中の好調期で、この年から翌年にわた って、菱田春草追悼展に出した五柳先生〉、第七回文展の〈松並木〉、さらにまた〈柳蔭> の大屏風などと、快 作をつづけている。とくに〈柳蔭〉の画面いっぱいに緑の葉を垂れている楊柳の風情は、夏の日の暑さと涼しさ を感じさせる。それにしても右の大樹のもと、驢馬をおいて午睡にふける童子の姿はほほえましい。その無心の すがたは、大観のもっとも愛好する人間像であったとも思われる。
以上、文展期の作品を一括していうと、いわゆる大観式新日本画がようやく成熟期に達したものとみてよかろ う。明治におこった天心的発想の新芸術がここへ来て、ようやくいちおうの形をなしたと考えることができる。 それは在来の日本画でもなければ、輸入亜流の洋画でもなく、明治人の自由発想による無類の芸術であった。
院展の再興
文展時代は大観がようやくにしてたどりついた開花期であり、快作連発の好調期であったが、そこにいたるま での大観の生活は苦悩と忍耐の連続であった。
五浦に拠って精進した院の芸術は、文展期にはいって、大観、観山、春草の三羽烏がみごとに花を咲かせ、そ の意味ではすでに報われた感もあったが、かんじんの院そのものはかえって集合力をよわめ、五浦はしだいに無 人の里となり、有名無実となっていた。しかも、明治四十四年には一派の天才画家とうたわれた菱田春草がたおれ、大正二年には親とも頼んでいた指導者岡倉天心が没した。残るのは、大観と観山のふたりであって、院その ものはもうどこにもない。天心が生涯をかけて念願した東洋芸術の維持と開発の理想を継承して展開させるには、 どうしても組織がなければならない。大観は、院の再興を同志とともに真剣に考えたといわれている。
この再興美術院は、すぐその秋から文展と対抗して独自の立場の展覧会をひらくことを決め、つぎのような声 明を発表した。 「芸術ノ天地ハ自由ニシテ拘束ナク準 繩ナシ、此天地ノ間二輸 翔スル吾等ノ芸術ハ吾等自己ノ芸術ニシテ官僚ノ 芸術ニ非ズ、権門勢家ノ芸術ニ非ズ、又師承模倣ノ芸術ニ非ザルナリ、吾等ハ此見地ニ立チテ日本美術院ヲ再興 シ、此二其全力昇挙ゲテ日本芸術振興ノ気運ヲ作ラントス、……」
このなかにも、大観らの真剣な意図と、あふれるばかりの闘志が感ぜられるであろう。東洋芸術の理想を現代 的に展開しようとする一派の行き方は、一面において断固たる理想主義を核心とし、個性的な自主創造を第一と。それは技巧より想を尊ぶ。 大観はみずからその陣頭に立って、少数の同人を率い、堂々と文展の大群と対立する気魄を示した。その成果 は、再興院展の歴史が語るとおり、創立同人のほか、小林古径、前田青邨、富田溪仙、小川芋銭、速水御舟、川 端龍子、近藤浩一路らの力量あり個性ある作家を輩出させて、院をして日本画壇の主軸をなすまでに発展させた。 大正三年、再興院展の冒頭をかざるにふさわしい大観式の着想による〈游刃有余地〉は華麗な色彩画である。 このような色彩をきかせた作風は秋色〉〈千ノ与四郎〉〈喜撰山〉〈柿紅葉〉と華やかな展開をみせるが、これ に対してまた、墨絵の工夫もしだいに独自の様式にすすみ、美しい濃淡とともに、いわゆる片ぼかしの新手法が 登場してくる。〈竹雨〉にはすでにそのあらわれが見られ、墨の世界は、さらに雲去来〉〈達磨〉から〈山窓無 月〉〈洞庭の夜〉〈夜〉などの微妙にして清爽な境地にすすみ、それらの集大成が名高い生々流転>の大画巻と なって、大観芸術のピークをなすわけである。
生々流転
大正十二年、関東大震災が発生したその日、上野の院展で公開されたのが、大観一代の力作〈生々流転>であ
る。
「構想の雄大さといい、内容のはるかさといい、また練達した手法のさわやかさ、重厚さといい、まことにこの 画巻は画人大観の性向、力量をみごとに発揮した記念作である。図は、人影も見ない山中の、雨滴が結んで渓流 となるところにはじまり、その流れが集まって水かさをまし、やがて山を下り、里を知って、ついに大海にそそぐ。ふたたび洋上の人なきところに至って竜巻をおこし、天にのぼって元にかえるという流転する水の姿を、延々 三十九メートルの長巻に描きだしたものである。生々流転ンはまた、墨の技法の面でも、表現様式の面でも、そ れまでの大観の仕事を集大成したものといえる。ことに、濃淡の変化のこまやかさ、刷毛を多用しながら、その 間に稚拙ともみえる筆線をきかせた、おさえた味わいは、鋭敏であってまた無骨な大観式のおもしろさを見せる。 なかでも岩壁をあらわした片ぼかしの表現は効果的である。
この一代の名作〈生々流転>を出して以後の大観は、すでに日本画壇の迫力ゆたかな大御所として、名実とも に第一人者の重さを持したが、制作の情熱は依然として衰えず、なお多くの大作、力作を出した。以後、昭和前 期にかけて世に出した代表的作品を展望しておくと、墨絵では、春夏秋冬の趣を託した〈山四趣>、謹厳な画調で ふたたび世に問うた昭和二年の〈瀟湘八景〉、思わず水しぶきを感じさせる観ある翌年の〈飛泉〉、同じ年の微妙 な諧調をもつ〈秩父霊峰春暁〉、さらに改組帝展に出した〈竜 蚊躍四〉をはじめ、多くの中・小品があり、い ずれも描法はしだいにこまやかとなり、以前の放胆なのびやかさにかわって、謹厳さ、ときには若干の窮屈さも 加わっている。大観という巨大な定評に、多少とも自縛される場合があったかもわからない。 色彩画にも多くの大作が描かれているが、なかでもその華麗さが人をおどろかすものは、ローマにおける日本 美術展に出した〈夜桜〉と〈紅葉〉〈野の花〉であり、野の花〉は大原女らしい女性をあつかって当時評判とな ったもの、色彩は派手さをおさえてさわやかだ。大作のほかでは〈海十題〉〈山十題>などがあり、〈麗日〉〈中秋 無月〉なども独自の品格ある色彩を駆使している。
このほかに昭和期にふえたものは富士山の絵である。大観は早くからこの日本独自の題材に進んで手をつけ、 大正中期に〈雲中富士〉の屏風を描き、霊峰十種〉などに独自の解釈をみせたが、さらに〈神州第一峰〉をはじ め、昭和にはいって〈朝陽霊峰><扶桑第一峰〉〈正気放光〉など多くの力作を描いた。〈山十題>にも多くの富士 があつかわれているし、清爽・秀麗な大観の富士は、この時代における日本人の富士観をもっとよく代表したと いってよい。
晩年
第二次大戦後まもなく八十を越えた老大観は、すでに美術界の前線からは遠い存在となっていたが、胸中には あいもかわらぬ創作の情熱が燃え、明治の気骨とロマンは依然として健在であった。美術界の最元老として、歴 史的な巨人として、多くの尊敬をあつめながらも、大観自身は、なおも無限な絵の道を求めてやまなかったので
ある。こころみに、戦後の院展出品作をたどってみると、〈竹外一枝〉〈四時山水〉〈瀟湘夜雨〉〈被褐懐玉〉〈流れ行く 水><漁火〉〈或る日の太平洋> 月出 〉〈水温む> <風蕭々 分易水寒》となっているが、どの作を見ても、 静やかに、、こまやかに、ある意味ではひえびえと、沈んでいき、冴えていく老大観の画情が印象的であろう。
右のうちでは〈被褐懐玉〉が、寒山・拾得は身にボロをまとっていても、内には精神の宝玉をもっているとい う意味で、いかにも戦後の世相に抵抗する大観式発想であるが、この絵にしても昔のような血気のむきだしは見 られない。青ざめたくらいに静かである。その点、漁火〉の灯にしても、〈月出酸分〉の山にしても、同じよう に静かであり、しみじみと冴えていよう。
ことに最後の出品作となった〈風蕭々分易水寒〉の墨絵は、晩年の老大観の気持ちが伝わってきて静かに感動 をさそう作品である。風変わりな犬が一匹ポツンと川岸にたたずんでいる。まわりには葉一つない枯柳が一本、 寒風にさらされているにすぎない。前期の覇気にとむ作風と比べると、ずいぶんと枯れ冷えたものであるが、河 水にみる微妙な墨調のうちに、壮士ひとたび去って還らずの気分が蕭々として感じられてくる。老大観の真意が どこにあったか知らないが、還らざる壮士は果たしてだれであったか。明治の気骨とロマンをつらぬいて、無窮 の芸術に戦い をいどんだ大観こそ、その還らざる壮士だったのではなかろうか。
この絵を 展最後の作として、大観は、昭和三十三年二月二十六日、池の端の自邸で死去した。同二十八日、 正三位勲一等に叙せられ、旭日大綬章が贈られた。その日、築地本願寺において日本美術院葬が行なわれ、谷中 墓地の老椎樹のもとに埋葬されたが、墓誌銘には、友人斉藤隆三の撰によって「明治大正昭和の三代に亘り作品 を以て業績を以て甚大の貢献を美術界に遂げて現代を後世に重からしめたるもの大観横山君となす」云々の文が 刻まれている。

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