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田中一村の略歴 (Tanaka isson)
1908年7月22日 | 木彫家の田中稲邨の長男として栃木に生まれる。本名:孝、号:米邨 |
1926年 | 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学 |
1947年 | 「白い花」で第19回青龍社展に入選 |
1955年 | 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る |
1958年 | 院展への出品を目指すが落選し、奄美大島へ移る |
1961年 | 見合いをするが自ら破談、農業を始める |
1962年 | 大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描く。その後休職して絵に専念、復職を繰り返す |
1972年 | 仕事を辞め絵に専念するが病気で倒れる |
1977年9月11日 | 心不全で倒れ、死去。享年69歳 |
田中一村は東京美術学校に入学しましたが、わずか数か月で退学しました。これが彼の画家人生の大きな転機となり、同期の加藤栄三、橋本明治、東山魁夷が日本画の新世代を築く中で、一村は自身の芸術に徹しきれない焦燥感を抱え続けました。
彼は「繪の実力では決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはそのいずれもありません。絵の実力だけです」と述べ、その焦燥感を示しています。
一村の代表作「アダンの木」や「クワズイモとソテツ」は、彼の気力と体力が限界まで注がれた作品です。「これは一枚百万円でも売れません。これは私の命を削った絵で閻魔大王への土産品なのでございますから」と彼が手紙に書いたのは、死の二年前のことでした。
彼は千葉で念願の個展を開くために、作品を非常に低価格で売ると決めました。例えば、「格樹に虎みみづく」や「初夏の海に磯鶴」は各1万5千円、「蘇鉄残照図」は45日かけて制作し、材料費7千円を含む総額5万2千円でした。これらの価格設定は彼の作品に対する深い思いと苦悩を反映しています。
田中一村の知人あて手紙より (スケッチブックの下書きから)
一切顧慮せず只自分の良心の 納得行くまで描いて居ます
紬工場で、五年働きました。細絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最後の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。
画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行くまで描いて居ます。一枚に二ヶ月位かゝり、三ヶ年で二十枚はとても出来ません。
私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、書の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから……
千葉時代を思い出します。常に飢に驅り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。
それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の友に見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に別れの挨拶なのでございますから……
そして、その繪は全部、又奄美に持ち帰るつもりでもあるのです。 私は、この南の島で職工として朽ちることで私は満足なのです。
私は細絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又繪をかきませうと思います。
当奄美の私の生活は、耕作して野菜は自給して居りますので、一、 二月の閑期以外は家を離れることができません。一軒家の一人暮しですから上葉の時は世帯は全部荷造りして家主に預けて出かけるの
ですから引越しも同様で簡単には出かけられないのです。昭和四十五年と四十六年と又工場で働いて三十万円程個展の費用を準備して上葉する計画なのです。
個展は、昭和四十七年二月の豫定。作品は運搬に便利な様に全部捲ける状態にしてありますから……
出典:<田中一村の知人あて手紙より (スケッチブックの下書きから)>