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掛け軸の買取作家

文人画家(南画家)

彭城百川池大雅与謝蕪村浦上玉堂
青木木米田能村竹田谷文晁渡辺崋山
椿椿山岡本秋暉山本梅逸祇園南海
野呂介石桑山玉洲柳沢淇園青木夙夜
池玉瀾浦上春琴浦上秋琴熊坂適山
僧霞山貫名海屋日根対山野口小蘋
中林竹洞中林竹渓呉春紀梅亭
高橋草坪帆足杏雨野口幽谷奥原晴湖
松林桂月鈴木芙蓉春木南湖田崎草雲
小室翠雲荒木寛畝田能村直入高島北海
山岡米華鈴木百年羽様西崕富岡鉄斎

中国作家の掛け軸

【中国書画】

北宋 郭熙 かくき (1023-1085頃)。字は淳夫。河陽温県(今の河南省に属す)の人。神宗の熙寧年間(1068-1077)に図画院芸学(画院画家の職名)となり、のちに翰林待詔直長に任じられた。

趙佶 ちょうきっ (1082-1135)。北宋の皇帝徽宗である。

米友仁 べいゆうじん  (1086-1165)。字を元暉、晩号を懶拙老人といい、出身地は太原で、襄陽に遷り、潤州(今の江蘇鎮江) に居を定めた。

北宋 巨然 きょねん 宋初の画家。江寧(今の南京)の人。開封の開元寺の僧であった。山水画は董源を継承している。

元 趙孟類 ちょうもうふ (1254-1322)。字を子昂、号を松雪道人、水晶 宮道人といい、呉興(浙江湖州)の人である。官は翰林院学士承旨(史書の編纂などをつかさどる官)に至った。

臨済宗白隠の弟子たち

葦津慧隆円桂祖純快嚴智徹峨山慈棹
央龍伊松格宗浄超環渓祖底貫宗会通
関捩慈訓寬瑞祖精玄室宗実悟庵襌聡
劫運祖永江西慧顒業海宗牧指津宗琅
斯経慧梁鐘山霊祐神州義敦遂翁元廬
石鼎道剛禅圭周因滄海宜運太庾放石
曹渓智脫草山祖芳層嶺方邃太霊紹鑑
大休慧昉大舟楚欣大虫慧岑大同曇慧
長沙恵法鳥道慧忠提州禅恕天崖玄魯
天猊慧謙東嶺円慈独天默笑月丘無隠
弁的首座澧川道温牧翁惠水雄山慧牧
良哉元明霊源慧桃楞山慧脫

【土佐光起 とさみつおき】  元和三年~元禄四年(一松)
土佐光則の子。承応三年(一六五四)に左近将監となって絵所預に就き、宮廷の絵所を再興。江戸時代に土佐派の伝統的画風を復興した。南宋の画家、李安忠に倣った鶏図を得意とした。

【彭城百川 さかきひゃくせん】 元禄十年~宝暦三年

江戸時代中期の文人画家。名古屋の薬種商に生ま れる。姓は榊原、名は真淵、字は百川。蓬洲、八他堂などの号がある。初め俳諧を学んだが、後中国の文人画の研究に励み、法橋に叙せられた。元、明 画風の作品だけでなく、俳画風のものもあって、初期の南画家に共通する多様な画風をみせる。中国画家の略伝である『元明画人考』を著した。代表作に 「京都 近江名所図巻」 や陶原家障壁画(一七五一)が ある。

【柳沢淇園 やなぎさわきえん】 宝永元年~宝暦八年

江戸時代中期の文人画家。柳沢家の家老曾根家の二男に生まれ、柳沢の姓を許された。名は里恭、字は公美。淇園は号で、柳里恭とも呼ばれた。画は狩野派や、長崎派の英元章に学び、綿密な写生画を多く描く。祇園南海(一六七六~一七五一)、彭城百川とともに南画の先駆者とされ、池大雅の師としても有名である。著書に随筆『ひとりね』や『雲津雑誌』がある。指墨による竹を得意とし、ほかに「西湖図」 (東京芸術大学蔵)などがある。

【池大雅 いけのたいが】 享保八年~安永五年

江戸時代中期の文人画家。京都の銀座役人の家に生まれる。池野氏で、幼名は又次郎、のち勤、字は公級、賞。大雅堂、霞機などと号す。幼くして父を失い、扇屋を業とした。初め土佐光芳に学んだと伝えられるが、南画に向かい、柳沢淇園や祇園南海に教えを受ける。日本各地を旅行して実景を写し、障壁画の伝統的手法を取り入れて独自の様式を作り上げ、日本的南画を大成した。障壁画から画巻まであらゆる画面形式をとり、技法の点でも指頭画、たらし込み、金碧画など多彩である。画面に表された空間は明るい広がりをみせ、その中に山水や人物がのびのびと描かれている。

【与謝蕪村 よさぶそん】 享保元年~天明三年

江戸時代中期の画家、俳人。摂津の人。本姓は谷口、のち与謝と改める。名は信章、寅、字は春。蕪村は俳号で、画号は四明、朝などを用い、晩年は謝寅と号した。二十歳ころには江戸に出て、俳詣の早野巴人(宋阿)、詩文の服部南郭に教えを受けた。画は独学のようで、若いころから描いていたが、独自性をみせるのは五十歳に近くなってからである。みずみずしい色彩の南宗画的なもの、格調高く迫力のある水墨画、そして軽妙な俳画と独得な画風をみせ、池大雅とともに日本南画の大成者と称される。代表作に「竹林茅屋・柳喬帰路図」屏風、「新緑杜宇図」「峨帽露頂図巻」「奥の細道図巻」がある。

【木村兼葭堂 きむらけんかどう】 元文元年~享和二年

江戸時代中期の好事家。大坂の人。名は孔恭、字は世粛。通称を坪井屋多吉郎、のち吉右衛門と改めた。号を異斎、書斎を兼葭堂と称した。酒造業を営んでいたが財産を没収され、文房具商となった。画を池大雅などに学び、詩書画に巧みであったが、それ以上に蒐集家として、また文人との交友やその後援者となったことによって有名である。『兼葭堂日記』や『兼葭堂雑録』 を書き、「山水図巻」などが遺されている。

【山本梅逸 やまもとばいいつ】 天明三年~安政三年

江戸時代末期の文人画家。名古屋の彫刻師の長男として生まれる。名は親亮、字は明卿。梅逸、玉禅居士、梅華主人の号をもつ。中林竹洞とともに神谷天遊の世話になり、京都に出た。美しい色彩の花鳥画を描いて有名になったが、安政元年(一八五四)に名古屋に帰り、画技によって士分にとりたてられた。「花鳥図」三幅対 (東京国立博物館蔵)や『畳泉密 竹図」などが遺る。

【貫名海屋 ぬきなかいおく】 安永七年~文久三年

江戸時代末期の文人画家、書家。阿波徳島藩士の二男。名は苞、字は君茂、恋の号がある。大坂で中井竹山に儒学を学んで京都に塾を開き、書では幕末の唐様の第一人者といわれた。画は初め藩の絵師に狩野派を学んだが、長崎で鉄翁に南画を学ぶ。正統的な南宗画を受け継ぎ、温雅な画風をみせる。「永源寺秋景図」や「歳寒有伴図」などの作品がある。

【中林竹洞 なかばやしちくどう】 安永五年~嘉永六年

江戸時代末期の文人画家。名古屋の医師玄棟の子。名は成目、字は伯明。竹洞のほか沖濱などの号がある。名古屋の富豪神谷天遊の家で学び、山本橋逸と知り合い、ともに京都に出る。明、清画に学び、画論家として『画道金剛杵』(一八〇一)、『竹洞画論』(一八〇二)などを著して南宗画を広めた。山水画を得意とするが、南宗画の柔らかさに欠ける。代表作は「夏雨初鳴図」「雲山浦趣図」など。

【桑山 玉洲 くわやまぎょくしゅう】 延享三年~寛政十一年

江戸時代中期の文人画家。紀州の人。名は嗣燦、字は明夫。号は玉洲、鶴跡園などがあり、桑嗣燦ともいった。初め沈南蘋の写生画風を、ついで池大雅に南宗画を学んだ。山水画に個性をみせるが、むしろ画論家として有名であり、『玉洲画趣』『絵事鄙言』 などを著した。代表作は「富士・箱 根図」 襖絵、「若浦図巻」など。

【田能村竹田 たのむらちくでん】 安永六年~天保六年

江戸時代後期の文人画家。豊後竹田の藩医の二男に生まれる。名は孝憲、字は君難。通称は行蔵で、竹田、九畳価史など多くの号がある。初め儒学を修めて藩校由学館の教授ともなったが、農民一揆に際して提出した藩政改革の建言書が容れられず、辞職して文人の生活を楽しんだ。詩書画をともによくし、日本の南画家の中で最も文人にふさわしい性格をもっていた。画風も中国の南宗画に近いもので、神経のいきとどいた気品のある温和なものである。著書に『山中人饒舌』『竹田荘師友画録』がある。代表作は「船窓小戯帖」、「亦復一楽帖」 、「稲熊舟遊図」などである。

【喜多元規 きたげんき】

生没年不詳。十七世紀後半に活躍した黄檗派の画家。承応から元禄にかけて(一六五二~一七〇四) 黄檗僧だけでなく、俗人や他宗の僧の肖像画を描いた。黄檗派頂相の写照性に顔貌や衣服に色彩の濃淡による陰影を施す洋風画的手法を加えて、迫真性を強くあらわした。中国画と西洋画の折衷的なものといえる。代表作は「隠元和尚像」(一六七一、万福寺蔵)、「稲葉茶応居士像」(一六九三、弘福寺蔵)など。

【渡辺崋山 わたなべかざん】 寛政五年~天保十二年

江戸時代末期の文人画家。三河田原藩士で江戸に生まれる。名は定静、字は伯登または子安。通称は登、初め華山と号し、後、華山と改める。父は家老にまでなったが、家は貧しく、内職として画を始めた。蘭学に興味をもつようになり、高野長英らと交わったが、天保十年(一八三九)の蛮社の獄で逮捕され、蟄居中に自殺した。画は谷文晁(一七六三~一八 四〇) に学ぶが、洋画の影響を受けた肖像画に特徴をみせる。細かに描き出すだけでなく、顔や衣服に陰影をつけて立体感を出し、迫真性をもつものである。「鷹見泉石像」、「回州真景図巻」が代表作。

【岡本秋暉 おかもとしゅうき】 文化四年~文久二年

江戸時代末期の文人画家。小田原藩士。名は隆仙、字は柏樹。通称祐之丞。大西圭斎、あるいは敏形意斎に学び、その後、渡辺崋山の門に入る。花鳥画を得意とし、南蘋派の画風を加えた、写生を基礎とした装飾的な作品を描いた。代表作に小田原城障壁画や「牡丹軍鶏図」(東京国立博物館蔵)がある。