川合玉堂の作品を買取、査定いたします。「川合玉堂その形成と芸術」
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川合玉堂とは
川合玉堂は、明治20年9月、13歳で京都の望月玉泉の門下に入って絵の道に入りました。彼の画業は実に70年に及び、昭和32年2月に83歳で亡くなるまで続きました。この70年間は、日本の歴史の中でも最も激しく社会変動が起こった明治・大正・昭和の時代であり、同様に日本画壇も近世的な形態から近代絵画へと変遷しました。
玉堂は、この激しい変化の中で日本画の理想を追い求め、自然を見つめ、自然から学び、人と自然と心とが一体となった玉堂芸術を築き上げました。彼の言葉によれば、日本画の妙は線と色彩の調和にあるとされています。
玉堂は愛知県葉栗郡外割田村(現在の葉栗郡木曽川町)で川合勘七の一子として生まれました。父勘七は草花や細工物を趣味とする風流人であり、母かな女は尾張藩校明倫堂の監学佐枝市郎佐衛門(雅号・竹堂)の三女で才覚を持つ人物でした。芳三郎は父母の深い愛情に囲まれて何不自由なく育ちました。
玉堂の生い立ちや画業の背景を概観すると、彼の芸術は日本画の本質を大切にしながらも、時代の変化に柔軟に対応し、新たな表現を追求する姿勢が見て取れます。このような姿勢が、玉堂の長い画業の中で独自の芸術を築き上げる原動力となったと考えられます。
六歳の時、芳三郎は近くにある寺小屋式の小学校に入学しました。彼は幼少期から利発で絵が得意で、大人が驚くような絵を描いては先生を驚かせる才能の持ち主でした。明治14年、芳三郎が7歳の時、本家の家産が傾き始めたため、父は子供の将来と教育を考え、外割田を離れて都会へ出ることを決意しました。親戚関係のある岐阜で酒造業を営む大洞家の世話で、一家は岐阜市米屋町に転居しました。父は文具商を始めました。
当時の米屋町は岐阜城下町の一角で商家が並ぶ中心街で、伊奈波神社の門前に位置し、人通りも多く、長良川が近くを流れる自然豊かな場所でした。芳三郎はこの頃から父と山歩きをし、自然を愛する個性を培いました。岐阜尋常高等小学校に転入し、父は漢学を学ばせるために近所の誓願寺住職、雄山瑞倫師に芳三郎をつかせました。芳三郎は瑞倫師に非常に敬愛し、18歳になるまで師事しました。
この頃から、芳三郎は絵に対する情熱が強くなり、学校で学ぶうちに絵への憧れも強まりました。彼は錦絵を模写したり、芝居を観に行って役者の特徴を覚えて似顔絵を描いたりしていました。
明治20年春、岐阜尋常高等小学校を卒業した芳三郎は、京都の書家青木泉橋と出会いました。泉橋の妻は翠蘋と号する美人画家で、夫婦は書画家として知られていました。書画家夫婦と川合家は商売柄もあり、親しくなりました。そして、泉橋との出会いが芳三郎の画家への道を歩むきっかけとなりました。この出会いについては、「習学時代を語る」で詳しく語られています。
明治20年9月、青木泉橋の紹介で、当時京都画壇で大きな勢力を誇っていた望月玉泉の門下に入った芳三郎は、まだ14歳の誕生日前であり、厳密には13歳の少年でした。望月玉泉は雪舟以来の水墨画と土佐派を折衷した望月玉蟾を祖とする望月派の四代目で、個性的な真景図を描いていました。彼は画壇で相当な実力者であり、明治12年には幸野楳嶺とともに京都府知事に画学校設立を建議し、13年の京都府画学校設立とともに、同校の東宗の実際的な責任者として出仕しました。彼は22年のパリ万国博で銅賞、23年第三回内国勧業博で三等賞を受賞し、28年の第四回内国勧業博の審査員を務め、37年に帝室技芸員となっています。
玉泉の門下で、芳三郎は「玉舟」の雅号をもらい、画家への道の出発点に立ちました。ただし、父は彼が画家になることを望んでおらず、京都行きの条件は年に4、5回京都へ行って、1週間から10日程度滞在して絵を習うというものでした。
この状況で玉舟芳三郎は、運筆の手本や粉本の模写、花鳥の写生などに励み、その上達ぶりは目を見張るものでした。しかし、どの画塾でも習画法は旧態然たる粉本の模写であり、自己の流派を固持する風潮が強かった。
明治34年に、玉堂は市ヶ谷新見附近から牛込の若宮町に転居し、充実期である若宮時代を迎えます。「焚火」(明治36年)と「二日月」(明治40年)の作品が若宮時代の幕開けであり、彼の芸術の方向性が明確になります。玉堂は文部省美術展覧会(文展)を制作発表の場として活動し、日本画壇で重要な存在になりました。多くの門下生が彼の私塾・長流画塾に入門し、大正4年には東京美術学校日本画科教授に就任し、若い画学生の指導にあたりました。
玉堂は常に新しい課題を持ち、模索しながら自身の画業を進めていきました。「霧」(明治42年)と「炊煙」(明治43年)は文展への出品作であり、自然の情趣を豊かに表現しています。翌44年の「細雨」では、新たな方向を示す南画的な断線を用いています。
大正時代には、大正博覧会で琳派風の厚塗りで「背戸の畑」を描き、色彩の効果を強く主張しました。大正5年には、大正日本画を代表する傑作「行く春」を描いています。この作品は、埼玉県秩父の長瀞での取材をもとにしており、美しい景色に感情が昂ぶり、叙情豊かな作品が生まれました。
大正6年には、当時画人としては最高の栄誉である帝室技芸員に任命されました。明治40年に開設された文展は、新旧両派の抗争や東京派・京都派の対抗などが続いたため、大正8年に改革が行われ、帝国美術院が設置され、文展も帝国美術院展(帝展)へと進化しました。
玉堂は栖鳳、春挙、鞆音らと共に帝国美術院会員となったが、彼は文展に対して常に意欲的で清新な作品を発表し続けてきたため、帝国美術院への参加は不本意であったと述べています。その後、文展は帝展へと改組され、玉堂は建設的にことを進め指導的役割を果たしていました。しかし、官展と在野展の併合論が持ち上がった際には、玉堂は他の画家とともに反対建白書を提出しましたが、当局はこの意見に耳を傾けず、官野合同の挙国一致の機構へと進んでいった。
昭和十年代に入り、玉堂の画風はさらに独自のものへと発展しました。「峰の夕」では夕日を受けて紫色に染まる早春の山並みを美しく描き、「深林宿雪」では色彩を押えた墨調と線描を基調とする画風が特徴的でした。その後の作品群もこの画風を基盤として発展し、戦後の水墨画の世界へと広がっていきました。
昭和十五年には玉堂が文化勲章を受賞し、その栄誉を受けましたが、同時期に日本は日独伊三国同盟を締結し、太平洋戦争へと向かっていった。玉堂はその重鎮として重要な働きをし、日本画壇の正常化に努めました。彼の画業は変動期にあっても深化し続け、多くの人々に影響を与える作品を生み出し続けました。
川合玉堂は、スケッチを繰り返し行い、そのヒントから自分の想像力を加えて絵に仕上げるスタイルで制作を行っていました。彼の言葉からは、スケッチを基にしながらも自由な気持ちで筆をとる姿が見えます。また、玉堂は幼少期から俳句を趣味として親しんでおり、その柔らかな趣味が晩年の絵にも反映されています。
玉堂の人柄が自然に映し出された温雅で格調ある作品が多く、後世にも多くの作品を遺してくれました。現代では日本画の特質が見失われがちですが、玉堂が信じた日本画の本質をこれらの作品から謙虚に受け止めていくことが大切です。彼の作品は、日本画の伝統や美を今後の世代に伝える貴重な資産であり、その精神を継承していくことが求められます。
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