川合玉堂 その形成と芸術

川合玉堂―その形成と芸術
川合玉堂が初めて絵の道に入ったのは、明治二十年九月、京都の望月玉泉の門に入った時からである。まだ十三歳 のうら若い少年であった。以来、昭和三十二年二月、八十三歳で世を去るまで実に七十年にも及ぶ長い画業であった。
しかも玉堂が画生活を送った明治・大正・昭和の七十年間は、日本の歴史の上でも最も激しく社会変動した時代で あった。同様に彼を取り巻く日本画壇も近世的形骸を打ち破り近代絵画として自立し、さらに現代絵画へとめまぐる しく変遷した。
この激しい流れの中で、玉堂は日本画の理想を見さだめながら、常に自然を見つめ、自然から学び、人と自然と心 とが一体となった玉堂芸術を築きあげた。
「線と色彩の調和、面白い問題です、日本画の妙は、全くこの二つの調和の上にあることと思はれます、線、如何 にも線に相違ないけれど、私はこれを筆と申したい、線といへば無意味のもの、単に、輪廓のやうにのみ考へられま すが、御承知の通り日本画の線と申すのは、決して無意味のものでない、又輪廓ばかりのものでもないのです、それ でこれを墨と申す方が、穏当の様に思ひます。」
これは『絵画叢誌』(明治三九年・二三五号)にみる「玉堂画談」の内の一文である。従って、これは玉堂の長い画 業の一過程に出てきた言葉であり、玉堂画の一面をいいあらわしたものである。しかし、ここには近代日本画が新日 本画として開拓しつつ、ともすれば西洋美術の模倣に追われ、現代に至る過程で、忘れ残してきた日本画の本質が宿 されているのではなかろうか。 ここでは玉堂の生い立ちからだいたいの推移を追って概観してみることとしたい。
らでん
割田)に生まれ 川合玉堂、本名芳三郎は明治六年十一月二十四日愛知県葉栗郡外割田村(現在は葉栗郡木曽川町外 た。この外割田村は木曽・長良・揖斐川の美濃三川が肥沃な土壌を堆積して形成している濃尾平野のほぼ中央部に位 置し、岐阜県との境界を流れる木曽川の河岸にほど近い所である。今日ではこの辺りにも都市化の波が押し寄せて、 かつての面影はしのび難いが、西には養老山脈から伊吹山を遠望し、さらに北方に岐阜の金華山から奥美濃の山並み を望む平坦な水田地帯であった。川合家は同地きっての豪族で岐阜崇福寺にある織田信長の墓所の守護を代々なして きた由緒ある家系であった。芳三郎はこの川合家より新たに分家した川合勘七の一子として、しかも父が四十八歳の
時に生まれた。父勘七は草花に親しみ、細工物を趣味で拵えたりする器用でなかなかの風流人であり、また母かな女 は尾張藩校明倫堂の監学佐枝市郎佐衛門(雅号・竹堂)の三女で才覚を具えた人であったという。こうした父母の深 い愛情につつまれて芳三郎は何不自由なく育った。
六歳の年には近くに寺小屋式の小学校があり、そこへ入学した。このころから芳三郎は利発でとりわけ絵がうまく、 時には大人も舌を巻くような絵を描いては、先生方を驚かしたというから天稟の才が具わっていたのである。 – 明治十四年、芳三郎七歳の時に折から本家の家産が傾きかけたこともあって、父は子供の将来を考え、生活の安定 と教育の為にも辺鄙な外割田を離れて都会へ出ることに意を決した。累代親戚関係にあり、岐阜で酒造業を営んでい た大洞家の世話で岐阜へ転住することとなった。一家は岐阜市米屋町に居を構え、父は筆・墨・紙などの文具を商う 商売を始めた。
当時、米屋町は岐阜の城下町の一角で商家がたち並ぶ中心街であり、伊奈波神社の門前に位置して人の往来も多い 所であった。また鵜飼で知られる長良川が近くを流れ、自然豊かな山河にも恵まれた所であった。「うちの親父は絵は 描きませんけれども、自然が好きで、私の子供の時分、父と山登りを時々したものです。」と述懐しているように、こ の頃に父と連れだって山野を歩いたことが、自然を好む彼の個性を培ったようである。 – かくして岐阜尋常高等小学校へ転入して岐阜での生活が始まった。父は、生来虚弱な芳三郎に学問で身を立てさせ るべく学校での学業のかたわら近所の誓願寺住職、雄山瑞倫師につかせて漢学を学ばせた。芳三郎も瑞倫師には非常 に私淑して、後年京都へ通って絵の修業に励んだ十八歳ころまで師事し続けた。 ….郷里の岐阜で暇さへあれば絵を描いて喜んでみた所謂絵の好きな少年であった。小学校も上級に進むに従って 私の絵に対する望みも憧れも伸びて来てみた。(川合玉堂「習学時代を語る」『アトリエ』7の4・昭5.4) というように、父の思いとは違って芳三郎の裡には絵に対する気持が強く萠芽しはじめていた。もっともこのころに 描いていたものは、絵草紙屋の錦絵を買ってもらって模写したり、近所の芝居小屋国豊座に芝居がかかれば両親に伴 われて観に行き、人目を忍んで鉛筆で写しとったり、役者の特徴を頭にきざみつけ、家に帰るなり墨と絵具を溶き、 役者の似顔絵を描いたりといったものであった。
明治二十年春、岐阜尋常高等小学校を卒業するが、このころ、京都の書家青木泉橋という人が、川合家のすぐ近く に逗留していた。泉橋の夫人は翠蘋と号する京風の美人画家であり、この書画家夫妻と川合家は商売柄もあって懇意 となった。そしてこの泉橋との出会いが芳三郎の画家への歩みを始める切っ掛けとなった。このあたりの経緯につい ては、少し長くなるが前出「習学時代を語る」で見てみることとする。
…恰度その頃諸国漫遊の途上岐阜に滞在してゐた青木泉橋といふ書家が、よく私の家へ遊びに来て度々私の絵を 見た。そして父に「これは望みある御子息だ、一つ京都に出して本式に絵を習はせては何らか」と勧めた。側で聞いてみた私の胸は躍ったが父は全然不賛成だった。といふのは私は兄弟のない一人子で、それも病弱の人が自分に は子供はないものと諦めてみた矢先、父が四十八歳の時に生まれたので、此の話の時は既に六十二歳の老齢になっ てみた。それで老後の一粒種ではあり、一家の将来に対する不安や危惧や、全く愛に溺れてみた父としては到底私 を手離すに忍びなかったことと思はれる。それと同時に其の頃の画家の人格、行為、貧乏等の一般的概念が私をし てその群に投ぜしめることを許せなかったのであらう。然し母は「この子は商人として家を継ぐ子でない」と諦め てあるらしく父に勧めてくれ、親戚の人達の言葉もあってやうやく京都に出る事を許された。私は非常な喜びで、 青木泉橋翁の添書を貰って知人に伴はれて初めて京都に出た。
かくして明治二十年九月、青木泉橋の伝手を得て当時京都画壇にあって大きな勢力を誇っていた望月玉泉の門に 入った。その時、芳三郎は十四歳の誕生日前であるから、厳密にいえば十三歳の幼い少年であった。
望月玉泉(一八三四一九一三)は、雪舟以来の水墨画と土佐派とを折衷した望月玉蟾を祖とする望月派の四代目 で、個性的な真景図を描いた。画壇にあっても相当な実力者であり、明治十二年には幸野楳嶺と連署して京都府知事 に画学校設立を建議し、十三年の京都府画学校設立と共に、同校の東宗(土佐派円山派などいわゆる大和絵の各派を 教授する)の実際的な責任者として出仕した。二十二年のパリ万国博で銅賞、二十三年第三回内国勧業博において三 等賞を受賞し、二十八年の第四回内国勧業博の審査員をつとめ、三十七年帝室技芸員となっている。
玉泉の門に入って早々に芳三郎は「玉舟」の雅号をもらい、画家への道の出発点に立った。とはいえ、画家にする 気など毛頭ない父の京都行きの条件は、年に四、五回京都へ赴き、一週間から十日位滞京して絵を習うというもので あった。
こうした中で玉舟芳三郎は、運筆の手本や粉本の模写、そして花鳥の写生などに打ち込み、その上達ぶりは目を見 張らせるものだったという。しかし、どの画塾でもそうであったが、習画法は旧態然たる粉本の模写であり、自己の 流派を固持する風潮が強かった。
とはいえ、芳三郎が上洛した明治二十年には、京都画壇にも伝統の画法を打開し、新たな表現技法を開拓しようと する気風が盛りあがりつつあった。 「遡ってみれば、明治十七年六月には法隆寺夢殿の開扉・救世観音菩薩像の調査など京阪地方の古社寺歴訪のために 京都に来たフェノロサは、祇園中村楼において幸野楳嶺、竹内棲鳳(栖鳳)らの前で美術講演を開き、その後、彼ら の画室を訪れている。さらに、芳三郎が上洛する前年の十九年六月二日に再度フェノロサは祇園中村楼において絵画 に関して講演している。そこで彼は京都の美術史的価値と東京の新しい気運を比較し、京都の著しい停滞を指摘して 若い画家たちを叱咤激励した。これに参加した楳嶺や棲鳳らに大きな刺激を与え、後日の青年画家の諸団体の結成や
研究会の開催など革新の情勢を開くこととなった。
この年の七月、京都の青年画家数名が「京都青年絵画研究会」を設立し、その研究会展を九月に開催している。さ らに翌二十一年には栖鳳、谷口香崎、田中一華ら青年画家たちが「煥美会」を設立、講説会を開き『美術叢誌』を刊 行(第三号で廃刊)してその意気を示している。さらに二十四年一月、祇園有楽館で竹内棲鳳の議長のもとに「青年 作家懇親倶楽部」の設置と「京都青年絵画共進会」の開催を決議して、その年の六月に開かれた共進会では竹内棲鳳 が一等賞銀印、二等賞銀印には菊池芳文、山元春挙、谷口香崎、山田松溪、三宅呉暁、森村雲峰が受賞している。
このような現象は、この期を境に京都画壇の中心が森寛斎、幸野楳嶺、岸竹堂、望月玉泉など老大家から次第に若 い棲慮、春挙、芳文らに移行しつつあることを示すものであった。
こうした新しい気風が漂う京都画壇の中へ入って修業に励む若い芳三郎も、技法が習熟するにつれ、次第に師玉泉 の自己の流派を固持する保守的な姿勢と新しいものを求めようとする己れの気持とに隔たりを感じていたという。
玉泉の許で修業を重ねて二年程たった明治二十二年、芳三郎にも展覧会に出品する機会がめぐってきた。それは翌 二十三年四月に第三回内国勧業博覧会が開催されるが、それにさきがけて岐阜県でも県下より広く作品を募集して予 選を行ない、その上で博覧会事務局へ送るというのである。
生意気にもそれに出品しゃうといふ考へを起した。私は其頃人物か動物を好んでみたので、奈良へ鹿を写生に 行かうと思ってゐたが、其頃岐阜に五十餘りの老人で中尾馬山といふ人がみて、木の椅子に猿を浮彫にして出品す る計画を立てあたので、馬山氏と共同でモデル用の猿を飼ふことにした。小猿を買ったが独りで寝かするのが可 愛さうで、私が毎夜抱いて寝たが小便のたれ流しには随分困った。其猿を写生して、老松に藤の絡みついた溪谷に 後が七匹ある「松侯群猿図」を描いた。其他に張って鹿を描いて「溪流遊鹿図」を完成した。(「習学時代を語 る」前出)
この出品にあたり、芳三郎は玉舟の号を玉堂と改めた。これは師玉泉の玉と外祖父竹堂の堂を貰ったものである。
二十三年東京での鑑査の結果、県下出品の多くが落選した中で玉堂は二点とも入選をはたし、「松侯群猿図」は褒状 に輝いた。芳三郎十六歳の時である。この時が玉堂の画壇へのデビューであった。
この栄誉が頑固一徹の父の心を動かし、画業一本で進むことに許しも出た。その年の九月、玉堂は再び京都へ上り、 玉泉塾を出て幸野楳嶺の大成義塾へ移った。
大成義塾の先輩には菊池芳文、谷口香崎、竹内棲鳳、都路華香らがあり、同輩に藤山鶴城(部屋頭格)、加藤南涯、 久保田金僊らがいた。 「師幸野楳嶺(一八四四―一八九五)は始め円山派の中島来章に学び、その後四条派の塩川文麟に就いた。円山派、 四条派両派の画技をそれぞれの直系について学んだ人である。文麟歿後は塩川派の後継者として京都画壇の中枢と
なって活躍した。特にその画業もさることながら子弟教育の功績が大きかった。それは京都府画学校の設立に深く関 与したことや『楳嶺百鳥画譜』『工業図式』『楳嶺百鳥画譜続篇』『楳嶺画譜』などの図譜類の刊行、さらにその門下か ら楳嶺門の四天王といわれる栖鳳(一八六四―一九四二)、芳文(一八六二―一九一八)、香崎(一八六四―一九一 五)、華香(一八七〇―一九三一)のような作家が輩出したことによる。
大成義塾に入った玉堂は塾生五、六人と共に寄宿生活をしながら修業に没頭した。塾の気風は自由で屈託のないも のであったというが、他流の画法を取り入れたり、古画によっての研究や自己の創造による画風などは許されず、い わゆる楳嶺風の中だけの研究であった。 「二十四年九月、社中の研究大会で、課題「鳥」「風」に対して描いた「本多資氏射講図」と「奴紙篇」が一等賞とな り、両親を喜ばすことができたが、十月二十八日に岐阜・愛知一帯を襲った濃尾大震災により父は不慮の死をとげて しまった。この震災は岐阜県下に多大の被害をもたらし、県下の死者は四、九九〇人、負傷者は一万数千人にものぼっ
た。
傷心の中、十一月中旬には岐阜の家財を整理し母を伴って京都へ出て、油小路御池上ルの照円寺の離れ座敷を借り て母との二人の生活を始めた。郷里の人々も復興に伴って掛物や鍵などを彼に描かせてこの母子の生活を支えた。し かし間もなく母は急性肺炎にかかり二十六年四月、世を去った。 僅か数年の内に父母を失うという不幸にみまわれたのは玉堂二十歳前のことであった。 この修業の時代がうかがえる作品を今回の出品画で見てみると、「老松図屏風」が二十四年夏の制作になるもので、 楳嶺門に入って一年足らずの未だ十七歳の時のものである。画風としての新味はなくとも八曲の大画面に縦横によぎ る樹枝の構成は伸びやかであり、力強い運筆の技量には目を見張るものがある。四条派にとらわれず古画の研究の成 果が汲みとれる。また「人物・花鳥図(習作)」は謹厳な修業ぶりを物語るもので確かな伝統画法を着実に己のものと していることがわかる。
…それ迄は楳嶺先生に近づく事を目的としてゐたが、自我に醒め、古画を見るにつれ、楳嶺風の作画にあきたら ず、思ひは高くとも技は伴はず懊悩の時は続いた。(「習学時代を語る」) 当時のことを回想しているように、玉堂は芸術上の懐疑に煩悶しながら制作を続けた。 日本美術協会や京都市美術工芸品展など東京、京都の展覧会で受賞を重ねて、世間にも青年画家として認められ、 華香や春挙らと画論を闘わせたり、共に写生旅行をしたりして京都画壇の一員として数えられるまでになった。
時は移り、二十八年二月には師幸野楳嶺も歿した。この年の四月、京都で第四回内国勧業博覧会が開催されること となり、玉堂は郷里長良川の「鵜飼」を出品した。樹林、山容は重厚な古画を思わせ、楳嶺風の南画的な表現も多分 に感じられる作品であるが、三等銅牌を得た。
賞は受けたものの芸術上の昏冥の中に立たされていた玉堂にとって、同会場でみた橋本雅邦の「龍虎図」と「釈迦
・十六羅漢図」の二点は大きな衝撃であった。今までに習得してきた四条円山派とは画風を異にする漸新な色彩と気 魄に満ちた表現は、玉堂にとって燦爛たる一道の光明であった。幾度か博覧会場へ通いその色彩と筆致を研究した。 次第に玉堂の裡には、もはや京都は離れ橋本雅邦に直に会うことが第一義となってきた。
玉堂にとって良き相談相手であり支援者の一人であった郷里の紙問屋の主人に宛てて、二十九年三月三日付の切々 たる手紙を出している。
「……過般御来京之 柳 御協議ヲ煩シ候野生上京之件其後モ日夜考案致候得共空想ノミニテ諄々決セズ徒 ラニ時日ヲ費消スルノミニ付,兎モ角一度上京致シ篤ト形勢ヲ観察シ貴殿之御知己ニモ謀リ 第一二ハ橋本先生 ニモ面会致シ候へハ始メテ決心ヲ得ベクト存候二付 貴殿御上京之砌乍、御面到御同伴ヲ煩シ度存候付御上 京之御日並等 数日前二御漏シ被成下候ハバ當日岐阜迄出張可、仕心算二御座候……」 かくして四月にはこの紙問屋の主人に同道してこっそりと上京した。日本橋の商人宿に泊り二人で雅邦を訪ね、そ して入門を乞うた。 その時雅邦は
「京都は立派な美術の都で、古い画も立派な人もあるのだから時々東京へ来られて、こちらの絵も見られるがよい ではないか」と言い、彼の作画上の煩悶については、
「それは力以上の強慾の為に苦しいのでせう。それで出来た絵が悪かったら自分の修業が足りないのだと思って更 に勉強すればよいのです」と答えたという。 これには「禅家大徳の痛棒を喰った思ひがした」と言っている。(「修学時代を語る」) この年の六月、玉堂は京都の家をたたみ、妻と長男を伴い東京へ向った。二十二歳のことである。下宿住いの後、 七月一日番町一口坂下の貸家に新居を構え本格的に東京での画生活に入った。
京都にあっては名声も知人も画友にも恵まれていたが、東京にはそうした知人や先輩もなく、全く一人で東京画壇 の中へ飛び込んだのだから、玉堂の決意も悲壮なものであったろう。
このころの東京画壇は、フェノロサによって種をまかれた日本画革新の夢が現実の形となって実を結びつつあった時である。
「明治二十二年に開校した東京美術学校を、若い俊英たちが卒業して本格的に作画活動をしだしたのである。横山大観(明治23年卒)、下村観山・西郷孤月(同9年卒)、菱田春草(同8年卒)らは岡倉天心の理想を身に体し、橋本雅 邦らの厳格なる実技面での画修業を経ていた。 玉堂は雅邦門に入って狩野派の画法の習得に励んだ。雅邦は放任主義の人であり、特に立入って指導する人ではなかった。それだけに自分で苦しみ雅邦の画風を極めるために努力を重ねた。
橋本雅邦(一八三五一九〇八)は、川越藩のお抱え絵師橋本養邦の子として江戸木挽町の狩野勝川院邸内に生ま れ、幼くして狩野派を学んだ。幕末には独立して一家をなしたが維新前後の時勢の中で生活は困窮を極めた。明治十 七年フェノロサが鑑画会を創立して日本画振興の活動を始めてから、狩野芳崖と共に認められ、ようやく画業に専心 できるようになった。東京美術学校創立と同時に日本画教授に任ぜられ、天心をたすけて日本画の作興に尽した。の ちに日本美術院創設に際しては主幹となった。子弟の大観・春草などが達成した革新的な新日本画運動の流れから見 れば、その画業は比較的保守的であった。
玉堂が初めて上京した四月に、天心は雅邦、川端玉章らとはかって日本絵画協会を結成し、九月にはその第一回展 を開催した。
上京して間もない玉堂は、この展覧会に「波に鷗」を出品して褒状を貰い、東京での画生活に幸先よいスタートを 切った。
翌三十年四月の第二回展では「孟母断機」で銅牌を受賞した。この時に銀牌を受けたのは下村観山、菱田春草、竹 内栖鳳の三人であり、銅牌は西郷孤月、横山大観、本多天城、寺崎広業、山田敬中、尾形月耕、小堀鞆音、今尾景年、 野村文挙と玉堂の十名であった。玉堂は上京後、一年足らずにして時代の先鋒をかつぐ観山、春草、大観らと伍して その技を競い、その後も常に受賞を重ねていることをみても、如何に彼が努力し確かな力をつけたかがうかがえる。
今回の出品作「江口之君」(三十年)からも、そのことが感じられる。普賢菩薩に身を変えて白象に乗る遊女江口の 君の亡霊は、実に淀みのない伸やかな線で描かれている。ここには、かつて京都で培った四条派の画風は影を潜め、 狩野派的な気魄のこもった描線が躍動している。 「さらに同年秋の日本絵画協会第三回共進会展へは「家鴨」を出品している。これは童子が小川で戯れて家鴨の群を 追っている情景を描いたもので、題材的には同時期の大観や春草らの刺激も感じられるが、激しく動く人物や風にな びく草や飛び散る水などは写生的な筆致を折込んで玉堂の新たな画風を示している。 「三十一年、東京美術学校騒動によって校長であった岡倉天心は野に下り、師雅邦も連袂辞職した。天心は新たな理 想に燃え十月には日本美術院を開院して雅邦はその主幹に擁せられた。その傘下には大観、春草、観山、広業、孤月 らが集い、在野団体とはいえ堂々たる陣容がととのった。玉堂も雅邦に従ってこれに加わり日本美術院展に出品し続 けることとなった。
日本美術院展は日本絵画協会との連合展として三十一年十月から三十六年十月まで、毎年春秋二回ずつ開催され十 一回を重ねた。
その間に、この展覧会を舞台に新日本画の方向を模索する試みが大胆に展開された。ことに春草、大観、さらに観 山らは西洋画法、とりわけ黒田清輝が導入した印象派的色彩中心の表現を取り入れ、日本画正統の主描法である線描をすて、無線没骨描へと進み、いわゆる「朦朧体」の画風へと進んでいった。
こうした急進的な動きの中で、玉堂は雅邦の画法を極めるべく日本画正法の研鑽に励んだ。しかし二十代半ばを過 ぎたばかりの若い玉堂には様々な心の動きがあったのであろう。 題材を見ても「日光裏見瀧」(三十六年頃)などの風 景画はともかくとして、当時流行の歴史画に取組み「小松内府」(三十二年)や「湘君」(三十四年)を描いたり、「池 畔観花」(三十一年)のような風俗画へと多様な面をみせている。そうした意味では、この時期は玉堂にとって最も辛 苦の時であったかもしれない。やがて玉堂は写生をとおして日本の自然の情趣を自得するのである。
このことは、作られた風景――定型化された日本画の殻を打ち破る革新的な作業であり、近代風景画の先駆的な役 割を果たすこととなったのである。
明治三十四年、玉堂は市ヶ谷新見附近から牛込の若宮町に転居し、玉堂画業の充実期であるいわゆる若宮時代を迎 えることとなる。
このたびは出品されないが「焚火」(三十六年)と「二日月」(四十年)によって若宮時代の幕が開き、玉堂芸術の 方向が鮮明になってくる。
「焚火」では林間で焚火を囲んで憩う三人の杣人の姿を写生的に描いて、つくりごとではない日本的情景への方向 が芽生えた。また「二日月」は東京勧業博覧会に出品し一等賞を得たもので、水墨で夕靄たなびく中を浅瀬を渡って 家路につく人馬を描いた。瀟洒な四条派の画法と狩野派風の線とが混然ととけ合って調和し、墨の明暗の諧調とあい まって自然の情趣を醸し出している。ここに玉堂の新しい画境が切り開かれた。 「この年、文部省はフランスのサロンのような官設の展覧会を設置すべく文部省美術展覧会(文展)の開設を決定し た。八月には審査員の任命が行なわれ、第一部日本画では岡倉天心以下九名の学者と玉堂を含む十四名の画家が選ば れた。玉堂は最年少者であり三十三歳であった。以後、彼は文展を制作発表の場として活動を展開し、大正三年に日 本美術院が再興された時には、研究姿勢の相違と雅邦もすでに歿していたこともあり、これには加わらず、おのずと 院から離れることとなった。 「玉堂は三十代半ばにして日本画壇において重きをなす存在となったのである。彼の画風を慕い私塾長流画塾へ入門 する者も多く、四十二年四月には門下百余名でもって展覧会本位の団体下崩会が結成されている。 「彼は子弟の育成には非常に熱心で、塾生には一々手本を与えたり、課題を出して、かつて楳嶺の指導がそうであっ たように塾生には朱で描かせ、その上を墨で丁寧に正してやるといった風であった。
さらに大正四年には請われて、東京美術学校日本画科教授に就任し、以来昭和十三年に辞するまで若い画学生を指 導することとなった。
画壇の指導者としてその身辺は多忙さを増してくるが、玉堂は新たな理想に向って自己の画境を求めつづける。
自分は一面、日本画の技術上の特色、古大家の試(たる手法、特に絵の組立などに就て研究し、練習を積み 古人の旧型を踏襲するのは固より不可であるが、一面には絶えず天然の風景に就て観察を怠らず、好き印象を胸理 に蓄し、感興来るとき、客観的自然の実景以外、自家の主観的に画產まる様にありたいと思ふて、之を理想と して居る。 装飾画としては光琳一派の試みたる如き、面白き方面に猶は発展の餘地があらうと思ふ。
(『美術新報』第九巻第六号明3・4) これは『美術新報』にみる玉堂画談の一文であるが、この外に自然の光の表現への関心などを語っている。常に新 しき課題を持ち、模索しながら己の画業を進めていくのである。
「霧」(四十二年)と「炊煙」(四十三年)は共に文展への出品作であるが、「霧」では深山に立ち込める濃秀を描い て、旧来の安易な霧の表現ではない生気のある、自然の奥を感受した霧を表わしている。これは日本画に新しい空間 概念を持ちこもうとしたものであり、また一方、色彩と線との融和をめざしたものであった。続く「炊煙」も、同様 の視点でもって描いたものであろうが、ここでは水墨を基調において、色彩を淡く添えて迫りくる薄暮の冷気を表わ している。樹林は没骨で処理し、近景の岩の描線は雅邦調の鋭鋒な線を離れて、柔軟性を帯びている。玉堂の自然か ら得た感興が豊かに表現されている。
さらに翌四十四年の「細雨」に至っては、狩野派的な描線は全く姿を消して南画的な断線を用いて新たな方向を示 している。
この筆描を受継いで「雑木山」(大正二年)、「駒ヶ岳」(大正三年)が生まれてくる。前者では風にそよぐ雑木を軟 らかな描線と淡い色彩で描出し、後者では濃淡を施して色彩画の方向を求めている。
大正博覧会(大正三年)では、画風を一変して琳派風の厚塗りで「背戸の畑」を描き、色彩の効果をより強く主張 している。これは前述した装飾画の方向を具現化したもので、以後「桜花」(大正七年)や「紅梅白梅」(大正八年 頃)などに見るように琳派的な花鳥画を幾度か描いている。
このように「二日月」で新境地を開いて以降、玉堂は多様な表現技法を探りながら己の画境を求めてきた。そして 大正五年、大正日本画を代表する傑作「行く春」を描いた。 これは前年の秋と五年の春の二度にわたって埼玉県秩父の長瀞へ旅行したが、そこでの取材になるものである。 秩父赤壁と呼ばれる岩壁のもとを岩を咬み白波を立ててはしる紺碧の流れ、舟水車は音をたてて回り、桜は花吹雪 となって散って行く。舟べりでは農夫がひとり、辺りの情景にも無関心に、背を丸め作業にいそしんでいる。 美しきがいえにより一層の情感をさそう。 北代画的な荘重感を帯びた懸と岩石を大胆に配して六曲一双の大画面を構築し、そこへ軽妙な筆致で左隻にいろがる桜の枝と舟水車を描いて軽快さと暖か味を加えている。こうした画法の妙もさることながら、真景から感得した 玉堂の情感の昂まりが、この叙情豊な傑作を生み出したのであろう。 翌六年には、当時、画人としては最高の栄誉である帝室技芸員に任命された。
明治四十年に開設されて以来、十二回を数えた文展は、新・旧両派の抗争や東京派・京都派の対抗などが続き、さ らに審査員出品作品の沈滞もあり、その改革をめざして大正八年新たに帝国美術院が設置され、文展も帝国美術院展 (帝展)へと衣更えした。
玉堂は栖鳳、春挙、鞆音らと共に帝国美術院会員となった。もっとも、このことは文展に対して常に意欲的に取組 み、清新な作品を発表し続けてきた玉堂にとっては不本意であったらしく、「中橋徳五郎氏が文部大臣となり南弘氏 が次官となられた時に、文部省は文展を改組して帝国美術院を作った。そして古い審査員連中に対し、あなた達を勅 任待遇にするから、今後展覧会の審査、鑑査には携はらないでくれといって、今尾景年、竹内栖鳳、寺崎廣業、それ に私などもみな帝国美術院へ祀り込んだ。しかも、そこへ美術界の長老富岡鐵斎翁といふ、思ひ掛けない人までが一 緒に入って来たので、美術院はますます黴臭いものになってしまった。」(川合玉堂「文展以前の展覧会」、『東美』第 4号昭3・1) と述べている。
とにかく文展は帝展へと改組されたものの、一朝一夕にして種々の因襲は掃滅されず、回を重ねるに従って、その 弊害はあらわとなってきた。そうした中で、玉堂は常に建設的にことを進め指導的役割を果たしている。 このあたりの経緯については『日展史・2』の総論で細野正信氏によって詳しく著されているが、昭和六年に「官 展と在野展との併合論」が持ち上った折りには、玉堂は結城素明、鏑木清方、平福百穂、松岡映丘の三氏とはかつて 当局に対し反対建白書を提出している。
その内容は「美術集団的事業の常性は分離派生の現象こそ自然にして、妥協に伴う合同は時に却って将来の危険を 孕む機縁となるべき憂に富む。吾人は近時我美術の隆盛なる寧ろ官私対抗相励精せる結果と解釈し」とし「民間有為 の団体を顧みず、独り帝展の事のみ専らなるは、或は美術奨励の大義に悟るの誹を免れざるべし」といい、正に当 を得た主張であった。温厚円満なだけではなく、芯には清節を押し通す強い信念を持った玉堂の人柄がしのばれる一 面である。
しかし当局はこの意見には耳を傾けず、時勢は流れた。昭和十年、いわゆる松田改組によって官野合同の挙国一致 の機構へと進み、新帝国美術院が組織され、翌十一年第一回新帝展を開催した。さらに翌十二年には平生文相のもと で再改組へ進んだ。これに対して、玉堂は大観、青邨ら十三会員と共に連袂辞表を提出し、同時に彼は東京美術学校 日本画科主任教授の辞表をも提出して清節を通した。
同年安井文相は帝国美術院を廃して新たに帝国芸術院を設置し、その秋には新文展の開催へと進んだ。 このようにめまぐるしく変動した日本画壇の渦中にあって、玉堂はその重鎮として重要な働きをし官展の正常化に つくした。 画壇の変動期ともいえるこの時期にあっても、彼はその画業をますます深化させた。
「行く春」は前述したように大正日本画壇の傑作であるが、玉堂の画風の変化の上でも重要な意味を持つものであ る。それは山峡行春の光景の中に小さく描かれた農夫が、この画中で大きな働きをしていることである。これ以前に も玉堂画の中には点景として人物が描かれているものは数多く見られるが、この作品にして玉堂は、単なる山水画で はない生活感のある人間玉堂の心情を発露したといえよう。
大正十年の「小雨の軒」では、小雨に煙る街道沿いの情景を色彩をおさえて墨画調の濃淡で描き、空中高く舞う鳥 が空間の広がりを感じさせる。また軒先での子供の語らいが詩情を高めている。
「雨後」(十三年)は、宿雨が今、まさに晴れ渡ろうとする一瞬の光景を描いたものだが、軽やかな筆致の描線と色 彩とが溶けあって清新な画境を示している。ここでも自然に抱かれて暮す日本人の生活がさりげなく描きこまれている。
こうした画業の延長上に、他に追随を許さぬ昭和十年代の玉堂独自の画境が展開するのである。 夕映えの峰と山路を下る人馬を描いた「峰の夕」(昭和十年)、そして厳寒の木立の中で炭焼く情景を描いた「深林 宿雪」(十一年)、さらに昭和十五年の「彩雨」である。
「峰の夕」では夕日を受けて紫色に染まる早春の山並みはあくまでも美しく、色彩画としてもこの上ないものであ る。それにもまして、残雪を宿す早春の峰の雑木は、春には芽吹く気配を漂わせて、ふくよかである。これは常に写 生を繰り返し自然の核心を会得した玉堂にして表現しうるものであろう。詩情(心)と自然と技(人)とが一体と なった玉堂画の世界である。
この画風が若宮時代を飾る「彩雨」となり、そして「春風春水」(十五年)、「山雨一過」(十八年)などへと連なり、 さらには戦後の作品群への基盤となっている。
続く「深林宿雪」では一変して色彩を押えて墨調と線描を基調とする画風を見せている。葉を落し冬空に小枝をさ らす樹々の表現もさることながら、降り積った雪の描写に驚かされる。この画風が発展し、戦後の「吹雪」(二十五 年)、「朝雪」(二十七年)さらには「月天心」(二十九年)などの水墨画の世界へと広がっていくのである。 昭和十五年、玉堂は文化勲章受賞の栄誉に輝いた。しかし時勢は、九月には日独伊三国同盟を締結し、翌十六年十 二月の太平洋戦争開戦へ向って進んでいった。

昭和十九年七月、玉堂は東京都下西多摩郡三田村御嶽(現在、青梅市御嶽)に疎開し、十月には更に古里村白丸に 転じた。二十年五月には牛込若宮町の自宅は戦火にあい、白丸で終戦を迎えた。十二月には再び三田村御嶽に移り、 住居を「偶庵」と称して、奥多摩での画生活に入った。いわゆる玉堂芸術の晩年を飾る「御嶽時代」のはじまりである。
「玉堂は戦後になっても敢えて都心に居を移そうとせず、奥多摩に隠棲し、画壇に超然として自己の芸術に没頭した。 この晩期十年の画によって玉堂芸術は一層の輝きをましている。
戦前までの「二日月」に始まり「行く春」から「峰の夕」、「深林宿雪」、「彩雨」へと続く代表作は、玉堂が修得し た四条派の画法や雅邦風の堅確な描法、さらには北宋の古画などから自得した描法と彼自身が自然から感得したもの を綜合したり、駆使したりして描きあらわしたものであった。これらはいずれも近代日本画壇を飾る傑作であり、玉 堂芸術の頂点を示すものである。しかし、戦後の「吹雪」、「夏川」(二十八年)、「鳥渡る」(二十九年)、「屋根草を刈 る」(三十年)などの作品にみられるおおらかで清新な感興は感じ難い。これは長寿を得て初めて達観しうる境地なの であろうが、作画姿勢の相違からくるものと思われる。晩年の作品をみると、玉堂は絵の中へ入りこみ自由に遊ぶが ごとく、柔軟な心で制作しているように思われてくる。
「私はスケッチは機会あるごとに絶えずやっています。もちろん、そのままが絵になるということはない。スケッ チを崩すまいとすると大抵失敗します。といって、私の場合には、架空的なものを主観でつくり出す度胸はありま せん。やはりスケッチがあれば安心して描ける。スケッチからえた一つのヒントがもとになり、それに自分の聯想 が加わり絵としてまとまるわけです。もちろん絵をとおして自分の気持ちを出そうと努めているが、自分の気持ち は自然というものに教わって、そこからおのずと引き出されてくるので、むりに主観の力でつくろうとはしないの です。しかし、描くときはもちろんスケッチを離れて自由な気持ちで筆をとるのが常です。」(川合玉堂「偶庵閑 日」、『三彩』三五号、昭和4・0) 戦後間もない時期のこの言葉に自由の境地で絵を描きつづける玉堂の姿が浮かんでくる。 また玉堂は郷里で俳句が盛んであった関係から、幼少のころより俳句を趣味として親しんできた。十七年に俳句集 『山笑集』を刊行したのをかわきりに、続く十九年には俳句十三句、長歌一首をまとめて歌集『若宮集』を、さらに、 戦後、奥多摩の生活の中で、折り折りの感慨を俳句や和歌に託して吟じ、俳歌集『多摩の草屋』(一巻―四巻)をつぎ つぎと刊行した。
こうした軟淡な俳句趣味が最晩年になると絵の中にも色濃くあらわれ「水四題、燕・河鹿・鶺鴒・」、「夏川」(二 十八年)や「鴛鴦」(三十二年)などにみる温雅で格調ある画中には、玉堂の人柄がごく自然に映し出されている。
画人川合玉堂は昭和三十二年二月、七十年におよぶ長い画業を終えて世を去った。そして後代の我々に数多くの作 品を遺してくれた。
ともすれば日本画の特質が見失なわれがちな今日、これらの作品が語りかける彼の信じた日本画の本質を謙虚に受 けとめてゆかなければならない。
(岐阜県美術館学芸員)

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